バロンさんはいつしか、その親鸞の空白の20年に、自分の青春の彷徨のあとをみるようになったの
ではないだろうか。こうしてその空白の20年の内容がみるみる大きくふくらんでいったことは言うま
でもない。
 もう一つ。しだいにできあがっていく一コマ一コマの絵の中で、特に大画面に鋭くクローズアップさ
れる光景の迫力について、いっておかなければならない。山中修行というか山中彷徨の中で若き親鸞が
遭遇したであろう女人たちの群像の魅力、といってもいい。
 親鸞の愛欲と憧憬の思いを華麗にそして大胆不敵に映しだす女性たちの裸像の躍動である。その大画
面が発散するエロティシズムの吸引力には舌を巻くほかはない。バロン吉元は長いあいだ、女性美の極
致として「天女」を描きつづけてきたのだという。その長い年月にわたる研鑚と執念が、まだ誰もみた
ことのない「天女」の創造にむかって一挙にほとばしりでたのであったのかもしれない。
 このバロン吉元の「天女」がまた、一筋縄ではいかない。天空に花びらのように舞う聖女、見る者の
心をとろかす惑わしの妖女、光の化身ともみまがう天真無垢の乙女、快楽の秘薬をその微笑みの奥に隠
す聖娼婦・・。
 バロンさんの内面にひそむ欲望が千変万化の翼をひろげて天空にくだけ散った生々しい傷跡を、それ
が映し出しているのだといってもいい。それがエロスとスピリチュアリティの交錯する不思議な世界を
生み出している。「天女マンダラ」といってもいい。「天女来迎図」と呼んでもいいだろう。

 そのバロン吉元が、この世紀末の紀元2000年、こんどは新しい変身名の龍まんじを名乗って、ニ
ューヨークで個展を開いた。知己が集まり、ファンに招き寄せられての企てであったが、これが大盛況
であったという。
 題して「ゴッドピア」展。私は残念ながらその場に出席がかなわなかったのだが、「ゴッドピア」と
はつけもつけたり、ゴッド(神)のいるユートピアというのだから人を食っている。ユートピアとはそ
もそも、カミもホトケもいない快楽と愉悦の理想郷だったはずではないか。にもかかわらずその無神論
的ユートピアに神をもちこもうというのだから、まさに神を怖れぬ所業というほかはない。こうして
バロン吉元におけるエロスとスピリチュアリティという主題が、みられる通りに成熟し爆発したのであっ
たろう。察するところ、そのゴッドピアある宇宙空間で、バロン吉元は龍神となって舞い上がり、まんじ
巴となって芸術粉乱の竜巻きをまきおこす魂胆なのだろう。「龍まんじ」という雅号にしのびこませた
隠し味である。
 角川コミックス『親鸞』(全5巻)の最終巻が角川書店から刊行されたのが、平成3年だった。以後
7年余り、氏との出会いの機会を逸していたが、このたびはからずも、現在私が勤めている大学の芸術
館で「龍まんじ個展」を開こうと思いついた。
 過日、久しぶりに祇園近くのある酒房で深夜まで盃をくみ交わしたが、その個性的な作品を生み出す
しなやかな肉体と例の鹿児島弁はあいかわらず健在だった。論じきたり論じ去る迫力も少しも衰えてい
なかったが、趣味はダンス、スポーツは柔道ときかされて、なるほどと納得した。よき芸術作品をつく
るにはまず肉体を鍛えておけ、ということだ。かれは自己の作家生活を持続させるために、しごく真っ
当のことをやっていたのである。むろん当方も、それをきかされて今さら驚くにはあたらない。
 夏の季節になると、毎年高円寺の阿波踊りに参加して阿呆のように踊るのだという。個展を開催した
ニューヨークのパーティでも、ハンダコと盗ッ人かぶりの姿で、珍妙な踊りを踊っていた写真を見せら
れた。おそらく自分では、天空高く天女とともに遊びたわむれている心境だったのかもしれない。

                                                山折哲雄 / 宗教学者
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