「破調」が鑑賞者に揺さぶりをかける
マンガ作家の間では「バロン吉元」の名で著名な作家が、「龍まんじ」という不思議な
雅名で活躍しているという。そもそも「バロン」なるペンネームも、雑誌編集部に現れた
新人作家の、新人離れした立ち居振舞いを見た編集長が、その場で命名したと聞いている。
雅名の由来にもきっと意外なエピソードがあるに違いない。しかしここではニューヨーク
展を成功させた『GODPIA』に注目したい。
龍まんじの天女は一見CGを駆使した制作にも見えるが、絵筆によるイマジネーション
の世界だ。氏自身の解説にも・・・トランス状態。浸りきる。没頭。魂の遊蕩児・・・・
などの表現が繰り返されている。画室での作家像が見えてくるようだ。ストーリーマンガ
は、その集中力、持続力無くしては成立しない。長編マンガは過酷な環境からしか生まれ
ないのだ。バロン吉元⇔龍まんじの間を浮遊する作家のイメージが、画面と筆の摩擦によ
って定着される様子が浮かび上がるのだが、氏の場合は殊に鮮明である。同僚作家である
モンキー・パンチ氏のヒット作ルパンV世の主人公とも、さいとうたかお氏のゴルゴとも
似ているという風貌や、独特の語り口が生み出す雰囲気と、それは無縁ではない。酒席で
披露される洒脱な小話や、軽妙なやり取りの「リズム」、「リフレイン」などが、そのま
ま“筆触”に繋がっている。会話に含まれるユーモアが、対話の相手を包んでいるか?に
みえて、突然吹き矢のように急所に襲いかかるのだ。どうやら「破調」が作家の好みであ
るらしい。
この展覧会は、ニューヨーク展凱旋記念の趣があるのだが、押しかけた鑑賞者の前で、
龍まんじは突然阿波踊りを披露したらしい。会場に居合わせなかったのが残念だが、衣装
や小道具まで用意したパフォーマンスは、氏の面目躍如である。本展の事実上のプロデュ
ーサーである山折哲雄氏との出会いは長編マンガ「親鸞」であり、原画はこの会場でも展
示予定である。鑑賞者も是非、【龍まんじ⇔バロン吉元】から生ずるエネルギーを感じて
ほしい。それは同時に【山折⇔龍】の落差から生まれる水流の力でもある。ゴッドピアの
天女からは、俄かに見えてこない創作意欲の源流が、マンガ原画の中では過剰なまでに鮮
明に表示されている。「親鸞上人の自分捜しがいつのまにか私自身の自分捜し」になり、
「必要以上に、自分本位にエンターテイメント性が強くなった」と作家本人も吐露してい
るが、整った劇画調の画面構成の、随所に現れる脇役キャラクターが破調の“吹き矢”に
なって鑑賞者に揺さぶりをかけるのである。
マンガ家バロン吉元に許されている特権を、龍まんじはゴッドピアの画面でも容赦なく
行使しているかに見える。「芳醇で神秘的エロスを発散させる天女」を創り出すために、
それは必要条件であったろう。透徹したマンガ観は後輩マンガ作者への批評にも現れる。
高校生の登竜門ともいえる「まんが甲子園ブックバージョン」には、毎年高いレベルの作
品が寄せられるが、選者の名を付した「バロン吉元賞」の選択は際立っている。破調に破
調を重ねたような、マンガならではの激しい表現に、ためらいのないエールが送られるの
だ。
明治、大正期の漫画家の多くが、マンガを愛しながら「本画」と呼んだタブロー作品に、
いわれのないコンプレックスを抱いていた。今もその雰囲気は完全に消えていない。しか
し、龍まんじには最初からその意識が皆無である。武蔵野美術大学西洋画科⇒横山まさみ
ち氏に師事⇒長沢節、穂積和夫両氏にファッションイラストを学ぶ・・・という経歴から
も、形式にこだわらない表現者の自在な遍歴の姿勢が垣間見える。「山折先生に霊的カン
フルを打たれた」ことがゴッドピア制作のきっかけになったと書いているが、「決定的邂
逅」「因縁」「廻向」など、多くのキーワードの裏側に『本音』を表現し続ける龍の日常
があることを注目しなくてはならない。ともすれば人気や売上高だけで評価されがちなコ
ミックの業界で、本音を通すことの難しさは想像以上なのである。
「GODPIA・・・龍まんじ(バロン吉元)の芸術的ためいき・・・」が本展のタイト
ルであるが、フーッという天女のため息の中に、ダイヤモンドダストのような微細な“吹
き矢”が隠されていることにご用心!
牧野圭一(京都精華大学マンガ学部教授)
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