丹波小学校6年の初夏、
私は父と伝馬舟(てんまんこ)を駆って知林ヶ島へ漁に出かけました。
父は島へあがって釣糸を垂れ、私は舟に残って釣糸と竿からではなく、
直に手から垂らしてアラカブを狙います。
そのうち風が出てきて海が荒れはじめ、
伝馬舟は錨を引きずって沖へ流されはじめたのです。
私はあわてて大声で父を呼びましたが、すぐ声が届く距離なのに、
風と波の音で声は掻き消され父の耳まで届きません。
父は横を向いた状態なので、流されていく伝馬舟に気がつかないのです。
私はあらん限りの大声を張り上げて、何度も何度も父を呼びました。
しかし父は依然として気が付く様子はありません。
風はますます強くなり、波頭の飛沫も高くなるばかりです。
わたしは恐怖の涙を風になぶられ、喉も涸れた頃、
ようやく父の眼に流されていく伝馬舟が映ったのか、
父
は矢庭に海へダイブしこちらへ向かって抜手で泳ぎはじめました。
距離は約100メートル、
父は波の間に間に頭をのぞかせながらこちらに向かってきます。
いや、本当はそれらしく見えるだけで、
舟が流されるスピードのほうが速いのかもしれません。
私の目からは不安の涙が留処なく流れます。
やがて父が確実にこちらに近付いてくることが分かり、抜手を休めることなく、
あとひと掻きで舟に手が届く所まで来た時、
いつもは無愛想で気難し屋の父の姿が、映画のターザンのように、
これほど逞しく、頼もしく偉大に見えたことはありませんでした。
私の眼からは今度は、熱い歓びの涙がほとばしりでます。
その父はわずか50歳でこの世を去りましたが、
父の面影は私の中に常に知林ヶ島といっしょに生きています。
知林ヶ島は私にとって、日本一の美しい島であり、
くそったれの島でもあります。

Copyright By BaronYoshimoto All Right Reservdd